市民スポーツ&文化研究所
 
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森川です!
私の日記というよりも日々思うことを自由に書いておく「メモ」だと思って気楽 にお読みくだされば幸いです。

1月18日(金) 「スポーツと体罰」

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Written by:
2013/01/18 8:16  RssIcon

 15日から朝日新聞が「スポーツと体罰」の連載を始めました(有料で記事入手可能)。スポーツ現場の指導者への取材をまとめての記事なのでそれなりに説得力がありますが、これまでの「識者」という方々の議論でも欠けている問題があります。

 以下は日本スポーツ法学会のMLに流したものに一部手を加えています。

 今の議論で欠けているのは「体罰」体育教師・部活顧問の似非カリスマ性を助長している私学経営政策、さらに生徒指導や部活を「人のいい」あるいはそれしか生きがいを見いだせない「体育・部活教師」に「(生徒指導や部活指導を)やらせておいて・おしつけて」(しかも体育教師や部活教師を内心は軽蔑しながら)、自分は素知らぬ顔で、時に「教育者」ぶっている、これまた似非教師たちがかなりの部分を占めている現在の学校体制の問題です。

 管理職もまた生徒規律を維持したり、教員の管理体制を維持するのにこうした体育・部活教師を利用してきたのですから、公の問題として問題にしないようにこれまでは汲々としてきたことでしょう。

そうはいっても肝心の「体罰」体育・部活教師にこういう自覚も認識もほとんど持っていない(中にはしたたかに自らもこういう学校体制に安住し、胡坐をかいていた者もいる)輩ですから、始末が悪いです((しかし私自身が高校体育教師の経験からみても体育・部活教師は二重に差別されているのであり、加害者であると同時に被害者的側面を持っていることをきちんと自覚することが大事ではないか、と考えています)。

 残念ながら教員組合も教員組織も集団的にこういう学校体制を改革していこうという「展望」を持ち得ていないのが大方の今の学校ではないでしょうか?

 したがってマスコミであれこれ論評している多くの評論家や人権問題の「専門家」たちには学校や体育・スポーツ界を取り囲んでいるこのような「宿痾」についてはきっと理解不能ではないでしょうか。、

「体罰」体育・部活教師を告発するのはかんたんですが、これを心底解決するには程遠い感じします。加えてこういう学校はいわゆる「進学一流校」ではなく、したがって学力だけでなくいろいろな意味で難しい生徒たちが存在していると思われる。

 残念ながらかなり構造的な、深い分析と、そして気の長い解決策を模索していかざるをえないというのが今の私の心境です。正直なところ付け焼刃で尋ねてくる記者たちに応える気力は失せてしまい、したがってなるべく口を閉ざしているところです。」

 ここまで書いていて大事な「暴力否定論」を忘れていました。元三鷹高校校長の土肥先生の「論稿」です。以下に参考のために掲載します。

土肥信雄・元都立三鷹高校校長の論考「体罰について(教師の体罰の根絶を)」

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  体罰について

教師の体罰の根絶を)
 学校教育法第11条には体罰の禁止が明示され、国連において採択された子どもの権利条約にも、子どもに対する非人道的な取り扱いを禁止している。それにもかかわらず教師の体罰問題が後をたたない。しかも一部においては熱血教師による「愛のムチ」のごとく見られ、体罰を肯定する傾向が教師あるいは保護者にもみられるのは非常に残念である。しかも実際に被害を受けるのは子ども自身であり、子どもの意見も聞かずに「愛のムチ」というのはあまりにも子どもの人権を無視するものである。

自身、自分の基本的人権を守りたいし、守って欲しいと思う。その意味で生徒の人権を守ることが私自身の人権を守ることにつながると確信している。教育現場における教師の暴力(体罰)の子どもに対する影響、あるいは子どもが育っていく社会に対する影響は多大なものがある。体罰を根絶することが、暴力の無い平和な社会、平和な世界につながると確信している。
 

体罰を否定する論拠

不平等性
教師と生徒は明らかに権力関係でいえば上下関係であり、その上位者である教師の体罰(暴力)により解決をはかるのは明らかに平等の理念に反する。しかも教師の暴力は許され生徒の暴力は許されないことも明らかに不平等である。(高校では生徒による暴力は退学が予想される。)一般社会においてすら罪を犯した者にたいしても人権に対する配慮がなされており警察官の過剰な暴力は許されないのである。また体罰を行う教師は学校内で弱者である生徒に対し、校則等に違反したという理由で暴力をふるうのであるが、社会において自分より強者である人達や権力者が犯罪等許しがたい行為を行っても暴力等をふるわない場合が多く、この点についても不平等である。
責任問題
教師が生徒に対して責任を持てる期間は長くて6年(小学生)一般的に言えば担任を持つ1~2年である。しかも体罰はほとんどの場合非常に感情的であり、絶対に傷のつかないという認識のもとに体罰が行われている状況ではない。したがって体罰により後遺症が残ったり、あるいは死亡するということも十分考えられるのである。その場合その生徒の一生を保障すること、即ち責任をとることは不可能である。となれば教育的指導と言えども体罰は許されない。体罰を「愛のムチ」だという人がいるが、愛のムチにより死亡した場合本当に愛のムチと言えるのだろうか。生命より尊いものは有り得ない。教師より多大な責任を負っている親であろうと子どもの命を奪う権利は決してないのである。
暴力肯定
教師の体罰を認めたならば全ての暴力を認めざるを得ない。なぜなら教師は体罰を正しい行為として行っているのであるが、例えば暴力団の暴力も彼ら自身は正しい行為として行っているのである。また治安維持法下における警察の拷問も正しい行為として行われていたのであり、体罰を認めたらこのような暴力も認めざるを得なくなるのである。その論理で行けば、結局戦争も認めざるを得ない。なぜなら戦争当事国はそれぞれ自国が正しいと主張するはずである。
暴力の連鎖
教師による体罰教育を受けた生徒は、あらゆる場合において自分が正しければ暴力をふるっても当然であるという論理に達するのである。即ち暴力は必ず暴力を誘発せざるを得ない。生徒が荒れている学校はその前段で教師の体罰問題がある可能性が強い。このことは家庭でも当てはまり、親から暴力を受けた子どもは暴力的になる場合が多い。
言論の自由の剥奪
教師の体罰は、単にその生徒に対する問題だけでなく、周りの生徒に対する影響の方がもっと恐ろしいのである。周りの生徒にとって、体罰をふるう教師に対して自由にものが言えなくなる場合が非常に多い。生徒がたとえ教師が間違っていると思っていても、もし言った時に体罰を受けるのではないかという恐怖が、結果的に基本的人権として最も重要な言論の自由を奪うのである。歴史的に見て、暴力の恐怖による言論の自由の抑圧は非常に多い。(治安維持法下における言論の弾圧もそうであろう)
弱い者いじめの構造
教師の体罰は、弱い者いじめの構造を生む。体罰を行う教師に対しては従順な生徒が女性教師やおとなしい教師に対しては暴力的になる場合が非常に多いのである。また生徒の間でも弱い者に対して暴力をふるったり、いじめが行われたりするのである。暴力は常に弱い者弱いものへと集中するのである。それは結局差別の構造なのである。男性の暴力によりどれほど多くの女性が虐げられ我慢したことか。(性差別)どれほど多くの人種や民族が暴力の支配により苦しめられたことか。(人種差別、民族差別)それは歴史が証明しているのである。
法的矛盾
体罰を認めたとするならば、法的矛盾を生じるであろう。つまり校則と法律との関係で言えば明らかに法律が上位法であり、校則を犯した生徒が体罰を受け、一方法律を犯した教師はなんら問われないのは問題である。逆に体罰を行った教師に対して法律を犯したという理由で暴力を加えることの方が論理的には正当である。(私はこの暴力も認めない)
組織的指導の崩壊(ファシズムへの道)
教育は全ての教師による組織的指導によりその目的が達成されるのである。体罰による指導は一部の教師による指導となり、学校全体の組織的指導は不可能である。体罰を行わない教師は生徒を抑えられない教師、指導のできない教師として体罰教師から批判される。それはまさに弱肉強食の暴力の社会である。民主主義を教える教育の理念とは決してなじまないものである。私たちは、教育現場で民主主義のルールを教えているはずである。民主主義は全ての問題を暴力ではなく話し合いで決定するシステムであり、一部の人々の暴力による支配はファシズムの支配へとつながるのである。
民主的手続きの欠落
もし体罰が教育指導上必要というならば、体罰を禁止している法律を改正するように運動すべきである。私自身も法律が常に正しいとは思わないし、歴史的に見ても治安維持法等、悪法も多数存在したのである。それを行わずに、体罰が先行するのは、自らの論理的矛盾になんら答えていないし、民主的な手続きを無視していると言わざるを得ない。
教師の専門性
教師は体罰以外にも様々な方法で生徒を説諭できるはずである。また教師は専門職である以上生徒を言葉で説明できるだけの論理を持たなければならない。体罰は教師にとって最も楽な解決方法であり、明らかに生徒指導に対する研究不足である。体罰による押さえつけは教師として失格であると言わざるを得ない。多くの教師は、体罰以外の方法で、多くの苦労と時間をかけて生徒指導を行っていることを忘れないでほしいのである。


体罰をなくすために
第三者機関の設置
このような体罰等が続くのは、子どもや親が訴えるべき中立的な第三者機関がないからである。このような機関を設置することは、教育現場、教育行政の責任ではないか。そのような機関は生徒、親、教師等の当事者の意見を十分に聞き事実を正確に把握して客観的な判断を下すべきである。
教育現場における実践
とにかく教育現場で体罰をなくさなければならない。学校において体罰が行われた場合はそれなりの措置が取られることを学校の最高責任者である校長が宣言すべきである。そのようにすることによって、体罰を行う教師に対してかなりの抑止力になるはずである。私自身は生徒に対して、「私は絶対に体罰を行わない。したがって生徒の暴力も認めない。もし、私に対して暴力を加えたならば厳しい処分と、場合によっては慰謝料の請求もあり得る。」と言明して指導を行っており、今まで体罰によらずに十分に指導が可能であった。学校の中が決して治外法権であってはならない。子どもたちが校門の前で「人権の鎧」を脱ぎ捨てなければならないのは悲劇である。学校の延長が社会であり、社会の延長が学校でなければ本当の意味で人権感覚は育たないであろう。
大学教育(教員養成課程)において
教員を目指す大学生に対しても体罰の問題点を徹底的に指導して、体罰を否定させなければならない。そのためにも講座として、子どもの権利条約等、子どもの権利を中心とした講座を設置すべきではないか。
          土肥信雄

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 この最後の③に来て長く指導者養成の大学に在職していた自分の力不足を思い知らされました。

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